現代アートの思考筋力をビジネスに

 

先日、私が所属しているコワーキングスペース co-lab墨田亀沢:re-printing

で開かれたある勉強会に行ってきました。

メンバー同士で気になるテーマを提示し、それについて話し合うという勉強会。

今回のお題は「現代美術館の解説(キャプション)を解説する」

「作品解説」の解説。 

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現代アートと遠い人間には意味がわからず、もう少しわかりやすくしてほしいよね」

「わからない人は門前払よ、と言われている気がする....」

はたまた「こんな難しい解説、美術館運営の裏側に何かあるのでは?!」

とっても興味深くも時々笑える面白い意見が飛び交っていました。

 

私は現代アートにそこまで興味があるわけでもなかったのですがいろいろな縁が重なり海外の大学院で現代アートを学ぶ機会に恵まれ、その2年間はアートを意識しながら生きるという生活を送っていた時期がありました。

 

しかし現実は厳しく、理解不可能な英文とたとえ母国語であっても意味のわからない内容、理解できない自分にとことん嫌気がさし、深い落ち込みと孤独を感じていた時、

「そもそも理解するとはなんなのか?」という問いが頭の中から離れなくなりました。

頭で論理的に理解することが全てだと思い込みすぎなのかも?

開き直りか、逃げ.....とまでは言いたくないけれど、分からないことをとことん味わってみるという状態を、それでいい、と自分に許可してみるべきなのか?

私たちはとにかく物事や起こりうること、現象をなんでも論理的にわかりやすく、そしてすぐ答えを出そうとしすぎなのではないだろうか?もっと体と頭と心の全ての感覚で理解するアプローチがあってもいいのか?しかし感覚に頼りきっては学問にならないのでは?迷宮に入り込んでいくような感じです。

 

そんな風に自分と現代アートの付き合い方を模索しながら言語化なり作品としてアウトプットしていました。ある意味とても自由で難しい課題に身を委ねる感覚だったような気もします。分からないものであるという前提でアートと向き合い思考筋力を養っているような感じでしょうか。

 

現代アートは美だけを表現するのとは違い、いろんな角度から私たちに課題を刺し、時に残酷なかたちであったり無の状態のようであったりと非日常へと導いてくれます。ある社会問題が元に創られた現代アート作品も見ているオーディエンスはその問題の奥へと引きずられ、問題以上の本質に触れることもあります。

 

このように、私の中では現代アートの美術館というのは日頃考えたことのない、感じたことのないことを考えに、感じに行く場所になっています。解説はあくまでも補助で自分がなにを考え感じるかをまずは第一優先に意識を集中させ、その美術の世界観に入り込んでみる。

非常にエネルギーを要する場所ではありますね....。

 

 

こんなアート思考筋力は鍛えても経済中心の社会ではそんなに役に立つこともないかな、とずっと思っていましたが、この勉強会の中で今回のお題を提示した方が非常に興味深いことをおっしゃっていました。

「これからビジネスの世界ではこのような現代美術を読むような感覚または思考能力が必要な気がする。ただ単に物事を効率化して、こうすれば、こうなる、というような法則的考えに限界を感じていて。だから少しでも美術に触れてみようと思った。」と。

 

私とは全く真逆のビジネスの第一線で活躍されている方が現代美術をそういう風に捉えるとは大変興味深く、そして分からないことを素直に学ぼうとする謙虚さにも心を打たれ、この意見を聞くためにここに参加したのかもと思いました。私の中でも今後なにかのヒントになりそうです。

 

ここ数年、不思議なのですが私は美術館や展示会場に入るとものすごい疲労感に襲われるようになってしまい、しばらく美術館へは足を運んでいないのですが今回の勉強会で久々美術館へ行ってみようかなと思いました。T